ハワイにいると、酒をほとんど飲まない。朝が気持ちいいからだ。酒をやめたのではない。「とりあえず」をやめただけ。
最近感じるのが、これは自分だけの話ではない。
同じ変化が世界中で同時に起きている。
なぜか。なにが何が変わったのか。
■ 贅沢とは量だった
少し前まで、贅沢とは量だった。長いコース、深夜までの酒、翌日に少し残る疲れさえ「濃い体験」の一部として受け入れられていた。
だが、その前提が崩れた。パンデミック以降、人は「身体が壊れたら全部止まる」という事実を頭ではなく体で知った。ラグジュアリーの重心は大きく動いた。McKinseyは世界のウェルネス市場を約2兆ドル規模と見ており、Bain & Companyの2025年レポートでは、ラグジュアリー市場の純成長はすべて体験カテゴリが占めている。いま伸びているのは、たくさん持つことより、よく眠れ、よく動け、翌朝シャープでいられることだ。
この流れは一つの明確な思想に結晶しつつある。ロンジェビティ——健康寿命の最大化だ。いかに長く、いかにクリアな状態で生きるか。かつて老後の話だったこのテーマが、30代・40代の最優先の投資対象になっている。約90兆円に膨らんだロンジェビティ経済の背景にあるのは、富裕層の道楽ではなく、全世界で起きた生存本能のアップデートだ。
■ 快楽の解像度が上がった——
アンハングとノー・フォグ
身体に意識が向くと、快楽の基準が変わる。
翌朝の頭にかかる霧——あれが効率悪すぎると気づく。二日酔いの翌日を丸一日ソファで潰すコスト。午前中の思考が鈍る感覚。英語圏ではこの変化を表す言葉がすでに生まれている。アンハング(Unhung)——酔い潰れない選択。ノー・フォグ(No Fog)——頭に霧をかけない生き方。どちらも禁欲の言葉ではない。「そっちの方が気持ちいい」という、より鮮明な快楽を選ぶ言葉だ。
食も同じだ。食べすぎた翌日の内臓の疲労感より、適量で代謝が回っている身体の軽さの方が快楽として上だと知ってしまう。重たい満腹感を「いい時間だった」と思い込んでいたのが、実は身体への「ROIが最も低い負債」として認識され始めたのだ。
一度この鮮明な感覚を知ったら戻れない。禁欲ではない。快楽の解像度が上がったのだ。我慢して減らしたのではなく、より鮮明な快楽を知ってしまった結果として、鈍い快楽が自然に落ちた。順番が逆なのだ。
■ 「とりあえず」をやめた人たち
だからいま起きているのは、単純な酒離れではない。飲酒が、習慣から選択に変わった。
とりあえずビールを頼む。何が入っているかわからないハイボールやサワーを流れで飲む。そうした受け身の一杯が古くなった。酒をやめたのではない。「とりあえず」をやめたのだ。
本当に飲みたいものだけを、飲みたい時に飲む。飲みたいものが明確になるほど、それ以外が自然に落ちる。飲むか飲まないかではない。選んで飲むか、流されて飲むか。成熟とは、何でも飲めることではなく、何を飲まないかを決められることだ。
数字はこの構造をはっきり映す。2000年代初頭に米国の18〜34歳の73%が飲んでいたのが、2025年には50%。英国の15歳は52%が20%に。全体は縮小した。だがプレステージ・シャンパンは取り合いになり、Liv-exのブルゴーニュインデックスは過去5年で大幅に上昇。トップの日本酒は入手困難で高騰している。消費が減ったのではない。惰性が消え、選択だけが残った。全体は縮小し、頂点は高騰する。
かつて「飲めること」が大人っぽさだった。いまは違う。何を飲まないかを自分で決めている人の方が、よほど大人に見える。
■ 主導権を取り戻す食べ方
同じことが食の世界で起きている。
90年代の大量消費が終わり、2000年代以降は体験すらも足し算で詰め込んできた。終わらないフルコース、過剰なペアリング、網羅しようとするミシュラン巡り。あらゆるものを全部入れようとする消費は、結果として感覚を鈍らせた。
身体を整えている人にとって、自分のコンディションを無視して提供される過剰な皿の連続は、もはや快楽ではない。長いコースに身を委ねることは、美食の主導権を他者に預けることでもある。そのリスクに気づく人が増えた。
だからいま、自分で選ぶ食べ方に回帰している。その日の身体の声を聞き、本当に求める数皿だけを選ぶ。そしてその一皿に対してのみ、本当に飲みたい酒を合わせる。惰性で口に入れるものを排することで、一皿の快楽の解像度は劇的に上がる。
全部食べることが贅沢だった時代から、何を食べないかに知性が宿る時代へ。酒の選択と同じ構造がここにもある。量ではなく精度。網羅ではなく集中。
■ 身体こそが最大の資産——バイオ・キャピタル
この流れの先にあるのが、自分の身体こそが最大の資産という発想だ。
考えてみれば当たり前の話で、モノは買った瞬間から減価する。だが身体への投資——精密検査で自分の状態を知る、腸内環境を整える、睡眠の質を上げる——は複利で効く。同じ100万円でも、減価するモノに使うか、10年後の自分を別人にする身体への投資に使うか。どちらのROIが高いかは明白だ。この計算ができる人が急速に増えている。
ロンジェビティ、ノー・フォグ、アンハング。言葉は違っても、根っこにあるのは同じ判断基準だ。自分の身体のパフォーマンスを最大化するために、何を入れて何を入れないかを自分で選ぶ。酒を選ぶのも、食を選ぶのも、サプリを選ぶのも、すべてバイオ・キャピタルへの投資として一本の線で繋がっている。
■ 選択の精度が、豊かさになる
これからの贅沢は、量でも見栄でもない。惰性を切り、選択の精度を上げることだ。
飲酒も外食も、満足はその場で終わらない。翌朝まで含めて設計された夜は、その場だけの快楽より、ずっと豊かだ。どれだけ美味しかったかだけでなく、翌朝どれだけクリアかまでが体験の質に含まれる。
10年後、いまの20代が消費の中心になった時、「とりあえずビール」は昭和の遺物になっているだろう。そしてその頃には、選択の精度が高い人とそうでない人の差は、見た目にも、仕事にも、はっきり出ている。1990年代に4人中3人が飲んでいた世代と、いま2人に1人の世代では、消費の前提が根本から違う。
だがこれは衰退ではない。惰性が消え、選択が残った。より鮮明な快楽を知った人から順に、消費の解像度を上げている。この流れはもう戻らない。


