第九弾は、ITとメディアとデザインの力で、地域社会に貢献するを理念に、グローバルITカンパニーを経営されている、日置経尊(@ツネ熊本【日置経尊】 )さんにお話をお伺いしました。
鹿児島本格焼酎蔵旅、阿蘇あか牛テロワール旅など『地方創生4.0』に取り組まれているツネさん、その根底にある想いとは?
株式会社 think garbage (シンク・ガービッジ) 代表取締役 日置経尊さん
地方創生とは何か? アジアユニティの可能性を共創、つむぐ
―まず最初に、ツネさんの現在のお仕事内容について教えてください。
我々は、簡単に言うと、ITとメディアをデザインの力を信じ、ウェブ、集客支援、デジタル運用、ブランディングをやって新しい価値創造を生み、社会を四歩前進させる会社です。観光DXのITサステナブルカンパニーというポジションを取り、人々の感動を喚起するITイノベーションをもって、『#地方創生4.0』を実現することを存在価値と考えています。
ミッションステートメントは「EVOQUE IT INNOVATION & TOURISM New Design」。47都道府県をリ・デザインしていくことを宿命としています。
―地方創生4.0という考え方を意識されたり、考えられるようになったきっかけはあるのでしょうか。
もともと私は、地元のロングセラーの老舗タウン誌の編集長をやっていました。そこはライティングだけじゃなく、カメラも、企画も、PR素材作りも全て1人でこなすハイブリッドな編集者を育てていて。まさに『全人類編集者時代』の今を予想し、編集長だからこそ、情報をちゃんと“エディトリアル”して、旬を捉え、市場性の観点から経済を喚起し、人を動かすことを意識して仕事していました。そんな時に、ちょうどスマホが出てきたり、情報のオウンドメディア化や、SNS勃発、ユーチューブ拡大といった、要は、情報の捉え方がどんどん複雑化して広がっていくようになって。これは多面的に地方創生という段階を、二面性、三面性、四次元みたいな感覚で捉えていくことが、これからもっと大事なキーなるのではと思い、『#地方創生4.0』なる造語を作って表現するようになっていきました。紙だけではなくて、立体的にデジタル。各種プラットフォームを使いながら、メディアをホッピングしながらミックスさせつつ、縦軸横軸斜め軸みたいなのを捉えて、アナログからデジタルまで横断する会社を作るべきだと思って、まずは会社を立ち上げました。
ベースは、編集長時代である10年前のサラリーマン時代に気づいたことです。とにかくすごい量を売っていたし、すごい量を取材したんです。今までおそらく16,000件ぐらい取材・原稿チェックなどして、街の人から、芸能人、政治家まで、インタビュー取材もするし、飲食店系、ホテル、旅館と、もう多種多様でした。横断していろんな人と対峙していく場面があって、そこで気づかされたものの集合体が、今の創業した会社のアイデンティティになってる感じですね。
熊本の情報誌が入口ではあったんですが、熊本にライブやプロモーションで来る、各芸能人、吉本興業の芸人の方から、経営者までいろんな方に出会い、アテンドもしてきました。無意識に、自分自身が“ハブ”になっていたので、日に日に、もっと、どう地元の魅力を記憶させようかとか、どう街へ還元していくべきかという発想が強くなっていって・・・。そういう意味では、結構、今の仕事にも似ているかもしれませんね(笑)。そのなかでも、やっぱり一番キーになったのが「くまモン」発足に立ち合っていたことかもです。「くまモン」が、私の人生の分岐点になっています。
メディアへの考え方を変えた「くまモン」プロジェクト
くまモンって今でこそ一般的にみんな知ってると思うんですが、売れるまでの過程が実は、たくさんあるんです。もともとのくまモンって細かったし、名札が付いてた時もあったキャラクターだったり・・・。正直、最初はあまり評判がよい方ではなかった(苦笑)。 新幹線が熊本を通るときにどうプロモーションを仕掛けていくかという、地方創生の重要なキーに関わった時に、プロジェクトメンバーに参画させて頂いて。そのプロジェクトリーダーが、脚本家である小山薫堂さんでした。
くまモンの立ち上げ当初は、各メディア(紙系・テレビ局・ラジオ等)や代理店さんなどに対して、この「くまモン」という象徴を使って何かできること考えてくださいみたいなコンペだったんです。小山薫堂さんたちに対してプレゼンをした内容が『くまモンがメディアを完全ジャック!』という案でした。それが通過して、当時では前代未聞!?なくまモン一色に染めるメディアが完成しました。それが全国で日本一の賞を取りました。おそらく、くまモンを一番最初に紙部門の担当として出した第1号だと思います。
・・・こんな逸話もあって。もともと各メディアは、テレビもラジオも紙もライバルですよね。なので、実は最初はうまくプロジェクトが嚙み合ってなかった。どこかがやるんだったらうちはやらないとか、メディアの課題が顕著に現れたときでした。ただ薫堂さんがそのときの飲み会の席で、珍しく少し苛立つ様子で「そんなんじゃダメですよ、熊本。それだったら絶対、他のところに負けます。これからの時代は共創です。新幹線対策という県の大事なことに、あそこがやるんだったらこっちはやらないとかって言ってる場合ですか?」と。その場が凍り付きましたね。それでみんなハッとして、そのときに初めて共に創る、コ・クリエーションみたいな言葉を鮮明に感じました。
まだ、その頃ってコ・クリエーションなんて言葉も皆無でした。もっと情報って分断されていて、選ぶ情報も一本化していたので縦軸横軸のみのイメージでした。それが斜めになったりとか、ウネウネし始めたのって、本当にここ10年くらいの新しい考え方だと思います。昔は、雑誌は雑誌の縦で、テレビはテレビで、ユーチューブはユーチューブ、シェアをしていくっていう言葉やそのためのボタンっていうのはなかったじゃないですか。それがどんどんGAFAを中心にメディアシェアリングがしやすくなったことは、共創の根本があるように思います。また、くまモンをフリーにした、『フリーミアム』という考え方を実行した成功パターンだったと思います。小山薫堂さんが拘った点でもあって、薫堂さんは脚本家だから、ストーリーテリングが上手だし、ヒトとマチとコトとの垣根をうまく繋いでいくことがすごく上手なんです。私のなかでは、いつも師匠の1人って言ってるんですけど、ちょっぴり幸せに、あったかくさせるプロ。薫堂さんは人柄も、クリエイティブも、全てに愛がある方で今でもずっと尊敬してますね。
プロジェクトの作り方、これからの生き方、自分がどう人を巻き込んでいくか、どういう風にものを動かして文化を創っていくかみたいなのをすごく考えさせられました。背景には雑誌の部数が落ちて難しい局面の時に、トップをさせてもらったっていう逆境もあります。このやり方じゃまずいなと思ってるときに、この共創する、共に創るっていう考え方に出会えたことは大きかったと思います。だから、くまモン=小山薫堂さんは命の恩人でもある(笑)。
頭の中のベースを構築する5人のキーパーソン
ーツネさんにとって影響を受けた人・考え方はありますか。
私の志向/思考を形成して頂いたキーマンは、めちゃくちゃいます。それこそ前職の白石社長や先輩、後輩、出会ったお客様たちみんなそうです。その中でも、小山薫堂さんや、神田昌典さん、元アマゾンの土井英司さん(出版コンサル)、本田直之さん、柳澤社長(面白法人カヤック)とかは、師と仰ぐ先輩ですね。薫堂さんの共創という考え方が1つ。2つ目が、ナオさんの実業家的なレバレッジをかけるという、梃子の原理。レバレッジシンキングとか、レバレッジマネジメントっていう考え方を実践してきたのも影響が大きいです。
そして、マーケティングのトップの神田昌典さんが、グローバリズムで『アジアユニティ』がこれから大事だっていうことを教えてくれて、全国の若者よ集え!みたいな募集をされた時に熱い思いを書いて応募したんですね。それに合格し、アジアユニティのプロジェクトで、全国の経営者、リーダーたちとシンガポール、マレーシアへ船旅に出たんです。ビビった。痛感した(汗)。そこで思い知った、「やっぱり、これからアジアは強い!」という自信と確信。アジアは1つの国と捉え、敵対することなく、アジアユニティであるという概念で、アジアのいち代表、中心となる会社を作りたいから、グローバルITカンパニーになりたいと思ったのも大きいですね。
会社員を辞めるときも、「熊本人辞めます、今日からアジア人として生きていきます!」みたいな挨拶をして辞めました。アジアの熊本、アジアの東京、アジアのソウルみたいな、そういう視点の下、会社を立ち上げ、生きていこうと思ったのが33歳ぐらいのときです。
くまモンの小山薫堂さん、レバレッジシンキングの本田直之さん、アジアユニティという考え方のマーケッター神田昌典さん、「人生は仕入れで決まる。」と説いてくれた土井英司さん、徹底的にビジネスは面白く楽しむべきと教えてくれた柳澤社長。この5人は特に、私の中で師匠で、頭の中のベースになっています。
コントリビューションの第一歩は、ツッコミ?!
―ツネさんが人を巻き込むときに意識されていること、人との関係性で意識されていることはありますか。
裏ネタを言うようで照れくさいんですけど(苦笑)、ナオさんの本にも書いてある、コントリビューション(貢献)は結構意識してるかもですね。例えば初対面の人に、最初に何ができるだろうか?意識しても、なんのコントリビューションをしていいかわからない時こそ、私の場合、最初は多分、『相手の笑み』を獲得しに行く。誰よりも先に、手っ取り早く、自分がピエロになるというか・・・。もともと私はベースが根暗だからこそ、基本的にファーストタッチのジャブは自分から打つようにしています。
営業のやり方も同じかもしれません。昔は編集長としてメディアに出てたりとかしてたからこそ、どうやったらファーストタッチで「掴みOK」な状態を作れるか? 思い返すとなんでこれを強く意識しはじめたかは、アーティストにインタビューするときでした。ホント全然喋ってくれない人とかも、結構いるんですよ。編集者だから絶対に文字にしないといけないので、この人たちをどうやって喋らせようかとあの手この手を使う。中でも護身術のように醸し出たインタビュー術=ピエロになる。最初に笑いの話題を作る。たまにやり過ぎて、地雷踏んで年に一回ぐらい怒られるんですけどね。ハハハ(爆笑)。
―巻き込まれる方には有名な方も多いと思うのですが、そのときにはどんなことを意識されていますか。
人を巻き込むときは、イベントや飲み会に行ったときに感銘を受けた人には是非あなたと仕事をしたいですっていうことを直接伝えることを必ずします。そうすると、なぜか、その何年後かに、だいたい叶っているから。意識的に、カラーバス効果もあるかもしれません。
熊本で壮大なプロジェクトでもあったTaKuRoo(タクルー)という、タクシー業界再編の改革プロジェクトを弊社で行うことが決まって。その時に、いろんな仕掛けを仕込む中で、巻き込んだ一人が秋山具義さんでした。熊本で一番走ってるタクシーなんですが、「TaKuRoo(タクルー)」という言葉は私が考えた造語なんです。敢えてニュース性を保つために、CIの象徴的なロゴについては、誰か有名な人に作ってもらった方がいいと考え、ちょうど具義さんがタクシーマニアなのを知って依頼しました。口説き文句は、「天草にある奴寿司に私と一緒に行きませんか?」と。具義さんとのお仕事は、ほんと刺激的で、まさにアイデア玉手箱な一流のクリエイターさんでしたね。
お金以外のプライスレスな形でも、自分が持っているもので、相手が喜ぶ価値提供は何ができるかはかなり意識しています。有名人に限らず、人を巻き込むときにはどこが喜ぶポイントかというのは、かなり仕込みます。その人たちのためのスペシャルな普段食べられないお店を仕込んでおくとか、その特別な時間をつくることを、24時間考えているかもです。
―ナオさんと最初に出会われたのはいつになるのでしょうか。
それこそ本当に、本やメディアで衝撃を受けた人たちにはなるべく全員に会いに行くって決めてました。例えば、情熱大陸とかを見たりして、衝撃を受けた人には、番組終了後、5分以内にその本人とは知り合いじゃなくても、すぐ感想と応援メッセージを送るとか。当然、一方通行なメッセージになったりも多いですが、中でも反応してくれる方もいて。例えば、teamLab★の猪子さんとかは返事をくれて、知り合いになったり、それから仕事も一緒にさせて頂いたり。
ナオさんもそんな感じだったんです。当時、レバレッジシリーズの本に衝撃を受けて、サラリーマン時代は、教科書のようにプリントして毎日毎日、毎週、部内の読書本にしてました。「レバレッジシンキング」や「レバレッジ時間術」を使って、生産性を上げたりとかっていうことをやってたんで、いつか本人に会ってインタビューとかしたいと夢のように描いていたんです。
サラリーマン時代に本田直之さんのレバレッジ思考に救われたというか。これで部数が伸びたっていう1つの成功のキッカケをもらいました。また、実は会社を立ち上げてから2、3年目ぐらいに、会社が3回ぐらい潰れそうだったんです。キャッシュアウトしかけたり、熊本の震災があったりで、まともに給料が出せない、もらえない時期とかありました。今一度、経営者としてやり直さなければいけない、マインドセットしないといけないと悩んでいたときに、たまたまフェイスブックでLab.立ち上げますと見たのがキッカケでした。それこそ佐賀の御船山楽園ホテルでととのった後に、武雄のツタヤで本を読んでたときに、オンライン講演があると知ってそのまま参加しました。
実は、御船山楽園ホテルも原点なんです。Lab.の集まりが始まったりとかから全部繋がっています。本当に、武雄で起業の新しい考えが変わったと思います。そのきっかけがオンラインだし、コロナだし、そのなかに私は熊本の震災もあるっていう。3つぐらいキーになってるんです。そこで第1発目に、Honda.Buisiness Lab.の創業メンバー募集もあって、あのときは、正直どうなるかってわからない状態だったけれど、すぐ熱いメッセージを送りました。そしたら初期メンバー3人のうちの1人に選ばれたんです。そのメンバーとナオさんで、提案、壁打ちをしていました。そのときはそんなにまだ仲良くはなってなかったですが、今のような形になる1番の種の種の種のときに、コンテンツや、ロゴの提案などもしたり、それこそ4人で時間があったらミーティングしてるみたいな形でした。そこでナオさんと距離が近づいたというか、認識してもらえるようになったのかなぁと。Lab.に入る前は、本当に一方的に知っているだけの、いちファン読者くらいの関係でしたからね。
―Lab.に入ってから、人の繋がり、お仕事、会社で変わったと思われることはありますか。
1つは、アクセラレータみたいな感覚になったっていうのが大きいです。ナオさんがよく「成功は移動距離に比例する」みたいなことをおっしゃいますが、2022年のコロナ化に関してはあえて、意識的に東京に毎月強制的に行こうと決めていました。わざとアポイントを入れて、食事を入れたりとか、行かなければならないような強制力を持って行くきっかけをつくっていました。アウェイの東京が、ホームのような感覚になっていったのはLab.メンバーのおかげだし、それが起爆剤になっているのは間違いないです。
2つめは、やっぱりセレンディピティだと思います。コロナになって、さらにセレンディピティの重要性っていうのを感じ始めてて。コロナの前って、多分みんな、必要か必要じゃない人さえも付き合ってたじゃないですか。それを一回分断されたことで、本当に必要な人とか、どこに時間をかけないといけないかっていうのをちゃんと整理できました。だがその一方で、セレンディピティが起きづらいっていうのを感じたんです。余白のある無駄な動きの中にしか、セレンディピティは生まれない、だったら、そんな空間を自ら作って横断していかなきゃいけないと強く思っていました。
そう考えると今、最もセレンディピティ的な出会いの中心は、Lab.にあるかもしれません。みんなが言ってるとおり、ナオさんというフィルターがかかってるから、距離が一気に縮められる。やっぱり志で集まるということは、ある程度アンテナ高い人たちがいて、共通の趣味があるような人たちが集まるから話が早いじゃないですか。
象徴的な何かに集う人たちで、有機的にセレンディピティが起きてるけど、それが必然的に繋がっていく。・・・無秩序の輪の中に、秩序の線と点が生まれてるみたいな。Lab.メンバーとだから、一緒に仕事し始めた人ってたくさんいます。ビジネスしようぜって言葉はいらず、肌感合うからちょっとやろうよみたいな、まるでバンドが突然、音を合わせてジャムセッションしていってるような感覚です。そこに、ピースがある。
ー鹿児島本格焼酎蔵旅もその中で生まれたものだったのでしょうか。
鹿児島焼酎プロジェクトは、ナオさんとLab.で一緒に壁打ちしてたから絶対的に生まれたものです。100% HondaLab.力です。テーマ、Lab.力って書いてもらってもいいかも(笑)。もともと地方創生の会社だし、鹿児島焼酎の提案する前に、私が熊本なので人吉の球磨焼酎組合さんへ提案した一部の企画なんです。球磨焼酎には刺さらず、実はお蔵入りしてた企画でした。ナオさんに報告して、残念だったね〜ぐらいの感じだったのが、何ヶ月後かしたら、夜22時ぐらいにあまり電話しないナオさんから鬼電が掛ってきてドキッとしました。眠りかけていて震えながら、電話に出たら「ツネ、あの企画書をすぐ書き直してアレンジしよう。今、鹿児島の連中と飲みながら話してたら、それが面白いってなったから」と。その日は確か金曜日だったんですけど、土日と休みを返上して、月曜日すぐプレゼンして、そこから始まりました。
▼鹿児島焼酎プロジェクトのYouTubeは下記から
https://www.youtube.com/watch?v=befUv1yQBfg
本当、ナオさんって、みんなも感じてると思うんですけど、サッカーで例えると、うまくパスを出してくれる遠藤選手やイニエスタ選手みたいで。ビジネスというピッチ上で、スルーパスをきれいに、たくさん出している名手だと思っています。作法を間違ったら怒られるんだけど、失敗は怒らない方なので、そのシュートを打つっていうのを私は意識的にやらせてもらってるかもしれません。
次世代に続く会社、地域、文化をつくるということを目指したい
―10年から20年で、実現したいことはありますか。
起業してちょうど10年。これから先、20年、30年とやっていくときに一番実現したいことって何だろうって考えたら、次世代に続く会社、地域、文化をつくるということを目指していきたいと思っています。それが多分、社会貢献だと思っていて、同じような仲間を増やしていかないといけないと思いました。同じようなモチベーションで、同じ方向性、志の人たちを仲間にするか、いちから育てるかしかない。ただ一緒に育つには、時間的制約から考えると、最大で10人ぐらいかなと思っています。
その場合、やっぱり会社をホールディングス化をした方がいいだろうというのも考えています。10人の同じ志高い社長をつくりたいと思って、会社も立ち上げたりしていました。私はメメント・モリの精神で、末広がりな『88歳の、8時8分』に死ぬって決めてるんですけど、そのときに棺桶の中で10人の社長たちが手を握ってくれてると思っているんです。その絵が浮かんでて、その方がパッと三途の川渡りやすいだろうなとか(苦笑)。
私の公私の心の支えであり、会社の副社長である相方・増田(サイバーレコード社長)は一番そばで、最も尊敬する社長の1人。お互い支え合いながら、彼はさらにスピードを上げて全国を呑み込みながら巨大組織を作ってるんです。横で一緒にやりながら、自分もまだまだ!と熱狂しながら、さらなる高みを目指し、一緒に切磋琢磨しながら、会社をもっと大きくしていくチャレンジをし続けています。
また、これから未来の会社経営のあり方を考えたときには、上場を踏まえた構想を決めたいなと思ってるんです。上場が全てではないですが、目標にする経営者の先輩たちを追いかけたいと考えるようになりました。
その中の1人に、上場会社の面白法人カヤック・柳澤社長(ヤナさん)が、阿蘇に来られる機会があって。ヤナさんを助手席に乗せて、1時間ぐらいドライブで移動中に「どういう思いで、なんで上場したんですか?」とか、「鎌倉っていう街から、東京じゃないところから上場を目指した理由は?」とか質問した時に、言われた一言が今でも鮮明に残っています。「日置くんさ。君も同じ経営者だよね。だったら、経営者の浪漫って、上場しかなくない?」と。その短く、端的に、柔らかい口調で投げかけられた言葉が私の中でドカッと刺さって、ハッとさせられました。
すごいこと言ってるな、この人と。すごく格好いいなと思って。自分の浪漫は何だろう?と考えさせられましたね。私は影響を受けたら納得したくて、すぐその現場に行くようにしてるんですが、鎌倉で御社を見せて学ばせて下さい、カバン持ちさせてほしいと声をかけさせてもらいました。柳澤さんが本当どこの馬の骨かわからん私の相手してくれて、会社のオフィスを見せてくれたり、鎌倉という街全体をオフィスとして捉えた考え方とか、もうびっくりする話をたくさんしてくれました。鎌倉市って歩けばわかるんですが、面白法人カヤックの看板が電柱とかにあるし、元銀行跡地やビルはカヤックのオフィスだし、あっちのレストランはカヤックの出資、集まるカフェは社員も街の人も集う場所になって、街がオフィスなんですよ。鎌倉って、かっこいいなぁと。だったら、熊本でこれらを目指すのもおもしろいんじゃないかと思うようになりました。
ならば「世界のカルデラ阿蘇」で、サステイナブルで、千年の草原文化と歴史がある中に、『ASO IT CREATIVE VILLAGE』として、阿蘇に上場会社とかいろんな起業家とか、スノーピークさんみたいなのも呼んだりして、世界の阿蘇をさらに目指す拠点のようになるような日本を代表するものをつくりたいなぁと。パタゴニア創業者イヴォン・シュイナードさんの会社理念「いい波があるのになぜサーフィンしない? 社員はいつでも好きな時に波に乗ろう」。そんな概念のように、天気がいい日は山があるから山登ろうよ、自然があるから外で仕事しようよというのを思って、阿蘇をオフィスに見立てたパークネス構想を練り始めたんです。その一環で、阿蘇あか牛テロワール旅(=肉旅)も始めました。実は私の中では、肉旅は入り口なんです。
▼阿蘇あか牛テロワール旅のYouTubeは下記から
https://www.youtube.com/watch?v=iXzMcYwHDkk 人生100年時代に、私たちの世代が、次世代のためにやらなければならないこととは何か? いま、できる身近なことから考えると、やっぱり草原文化を守ることという、1000年以上も守られてきたものをしっかり守り育てていくことが大事だと思います。それは地球環境のためにも。そのために何ができるかっていうことを、ITやクリエイティブ、サステナブルなツーリズム・ニューデザインを手掛けて、もっと阿蘇に人が目を向けることも必要だし、もっと言うと、移住定住っていうことにも実は繋がるようなことを仕掛けようとしています。
私の役割は、一流と一流のローカルをエディトリアルすること。巻き込み、くっつけたりして、もっと異次元な動きを生み出したり、コンテンツと何かを結びつけて価値創造を見いだしていくことだと思っています。さらにこれから地球的視野に立ち、ビジネスを展開していくことが絶対重要だからこそ、敢えてその軸はローカルに置きつつ、スピード感をあげるために東京や世界中にも行って、グローバル目線でローカルにいるという選択を選んでいきたいと思っています。まさに「グローカル思考」で。 熊本に上場会社はまだ数件なんですけど、上場会社ができて労働力が生まれ、我々のオフィスは『ヘイセイ・パークネス』と呼び方をしているんですけど、公園のように人とビジネスとクリエイティブが交差し、さらには産学金連携をしていって、教育から社会へ、入口から出口までちゃんと人間として成長する場所を作ること。弊社としてすべきことかなと、今思いつつ動いてるという感じです。
―最後にHonda.Labの方たちにメッセージをお願いいたします。
みんなの夢が自分の夢だし、自分の夢がみんなの夢っていうのを実現するところがLab.だったりするのかなと思っています。だからもっともっとみんなの夢も聞きたいし、話もしたいし、自分ができることのコントリビューションは、どんどんしてあげたい。
そういうプラットフォームの中で、人生は壮大な実験を連続的に、スパークし合い、叶えていくっていうのが、Lab.というギャラクシー空間だと思います。
※PS:.サウナー界のジャスティンビーバー ととのえ親方の大さんが海士町で撮ってくれた写真がお気に入りで、今回プロフィール写真に使わせてもらいました。有難うございます!
今回の「Honda Lab. SPOT LIGHT」でもお仕事のお話、その先にある想い、経尊さんのコントリビューションへの考え方等、いろいろなお話を伺うことができました。経尊さん、貴重なお時間をありがとうございました!
今後もHonda Lab.メンバーへのインタビューを実施していきます。お楽しみに!
interview ・Text by @みぃ
Support @Kei @さわ @Yasuto