第40弾は、旅館たにがわ・別邸仙寿庵 代表取締役の久保 英弘(@久保 英弘)さんにお話をお伺いしました。
生まれ育った故郷・群馬県みなかみ町谷川の豊かな自然、そして人との縁とスキーを通じて培われた挑戦心と素直さ。「人に流される」ことをポジティブに捉え、困難な壁をも乗り越えて前向きに進む、旅館たにがわ・別邸仙寿庵の代表取締役である久保英弘氏。その波に流されるように歩んできた半生と、そこから見えてきた旅館経営のかたち、そして未来へのビジョンに迫ります。


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旅館たにがわ・別邸仙寿庵 代表取締役 | 群馬県みなかみ町谷川温泉にて2軒の旅館を経営。自然との調和を大切に「非日常のくつろぎ」と「明日への活力」を提供。スキーやトライアスロンを通じて挑戦を続けながら、健康経営を軸に地域と未来を紡ぐ。


「自然と人との調和」を、宿というかたちで


―初めに、現在のお仕事の内容から教えてください。

    群馬のみなかみ町・谷川温泉で「旅館たにがわ」と「別邸 仙寿庵」の2軒の旅館を営んでいます。代表になって5年目、3代目です。元々は祖父が温泉の掘削業を高崎で営んでいて、そこからみなかみに来て、谷川岳に惹かれて、そこから旅館を購入したのが旅館業のスタートです。父が大学時代に祖父が他界して、父は約50年近く社長を続けてきました。僕が大学を出てから1年だけ業務用の食品卸の会社に勤めたのち、「仙寿庵を一から一緒に作っていこう」と声をかけられて、旅館に戻ったのが本格的なスタートでした。

    幼少期の頃からずっと片付けや洗い物を手伝っていたので、「旅館だけは絶対やらない」と思っていたくらいなんです。小さい旅館だったので、両親からしても子供がいると賑やかになって大変なので、冬はいつも近くにあるホワイトバレースキー場に行かせられてたのもあって、スポーツ選手になりたいと思ってました。でも大人になってみると、結局いちばん深く関わることになったのが、家業である旅館でした。

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▼旅館たにがわの公式サイトはこちら

    元々の旅館たにがわは小さい温泉街にある旅館なので、仙寿庵の計画では、「もっと自然の中でお客様がくつろげる最高のものを作りたい」という両親の想いがありました。当時、その土地にはリゾートマンションの計画があって、地域の景観が崩れるという危機感が先にありました。だから地域で話し合い、3階建て以上を建ててはいけないという条例を作ったんです。結果として計画は頓挫し、温泉の源泉を3本抱えるその土地を、うちが購入できました。祖父の代には自家源泉を持っていなかったので旅館に対しての批判もあり、温泉に対する渇望がずっとあったので、ハングリー精神でいいものを作りたいという想いが強くなっていったんでしょうね。

    設計は故・羽深隆雄さん。当時流行の「ロの字型」の設計図面をあっさり却下して、「全室から谷川岳が見える」「全室露天風呂」「自然に溶け込む建物」――わがままのようで、でもここにしかない自然を、地形の傾斜を生かしながら形にしてもらいました。全室が露天風呂付きは日本で1、2番目だったので事例がなかったですし、オープン初日に水が出ないという事件まで起きて、あの半年間はずっと動いてました。それでも、やり切って良かったと心から思っています。

    別邸仙寿庵の客層は、海外の方が全体の1割5分で他の大部分が日本人なんです。僕は、海外に合わせるのではなく、日本の旅館として日本人に誇れる水準を磨くことを大切にしています。その結果として、「あそこへ行きたい」と世界から選ばれるのが理想です。英語対応もしますが、「いらっしゃいませ」「おはようございます」は日本語で話すようにしています。何語よりも、まず各スタッフが目の前のお客様に対して、どうしたら喜んでもらえるのかを考えて行動を起こすという、誠心誠意が伝わることが大事だと思っています。

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▼別邸 仙寿庵の公式サイトはこちら

“流され力”が開いた扉――挑戦を続ける原点


―子供の頃は嫌だと思っていた旅館にどのような経緯で戻ることになったのでしょうか。

    僕の人生は、いつも人に背中を押されて進んできました。町場の小学校まで毎日5キロ歩いて通っていたので、自ずと長距離が速くなっていたんですよ。だから中学校では陸上部に入ろうと思っていたら、友だちに連れられて、間違えてスキー部の部室へ連れていかれたんですよ。そこでまさかの少年野球時代の怖い先輩がいて「お前も入るよな?」と言われ、「いいえ」と言えなくて入ることになりました(笑)。

    スキーは小学校でジャンプとアルペンをやっていて、みなかみ町で5番くらいの成績でしたが、中学では複合種目(ジャンプ+クロスカントリースキー)に転向しました。長距離は得意だしクロスカントリーもいけると思っていたのに、クロカンは県でビリ、ビリ2なんて結果で、それがとても悔しくて朝練を始め、少しずつ巻き返していきました。高校は両親の母校・東京農大のつながりで、できたばかりの農大三高の体育コースへ推薦で入りました。埼玉の寮生活では夏は陸上、冬はスキーという生活をしていました。スキーは群馬では中盤くらいの成績だったのに埼玉に行ったらいきなり県1位になって、自ずとインターハイも国体もジュニアオリンピックも出れていたんです。外に出て初めて、「旅館って実は珍しい仕事なんだ」と気付きましたし、環境が変わると強みも変わるんだということを感じましたね。

    大学では一度スキー推薦を断り、遊ぶつもりで入学したのにスキー部からお誘いがあり、縁があってまたスキー部へ入っちゃいました。そのときは自信があったからかすごく驕っていた自分がいました。スキー部のリーグは1部から4部まであるんですけど、当時4部リーグだったので普通に出ても勝てると思って練習をサボっていたんですけど、いざ大会になったら先輩に負けたんですよ。そこで目が覚めて、また一生懸命やるようになったんですが、気付いたときには同期はみんな辞めていて、3年目のときには1人になったので自ずと主将になってしまいました。このやる気のない男が急に主将になってしまったので、またスイッチが入って絶対に2部に上がると自分に誓いました。

    当時の東農大はジャンプ競技は出ておらず、ジャンプを始めれば2部に上がれる可能性は高いと思っていたんですけど、中学のときとはジャンプ台の高さが違うので躊躇している自分がいました。しかしスキー部のOB会のときにOBの先輩に「お前が飛ぶんだよ」と言われてジャンプを始め、コンバインドをやることになりました。午前ジャンプ、午後クロカン――練習の種目が変わって単調さが消えると、練習が途端に楽しくなって成績も伸びる。僕はいつも、人に流されることで、次の景色へ押し出されるんです。

    結局、短大から編入して大学は6年いました。旅館には勤めたくないと思っていたんですけど、これだけスキーをやらせてもらった両親への感謝の念が湧いてきちゃったんですよね。旅館を継がなきゃだなと、旅館を継ぐことが一番の親孝行なんだなと感じたんです。そこで旅館に勤めるに当たって、いろんな旅館やホテル、飲食店を見てみたいと思って、食品卸の高瀬物産に入社して、本社の営業本部に入りました。そこで3〜5年働くつもりでしたが、両親から仙寿庵の立ち上げの話があったので、結果1年で戻ることになりました。

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―スキーとの関わりが人生に大きく影響を与えているのですね。

    そうなんです。旅館に戻ることになったんですが、スキーでオリンピックに出たいという夢はずっと諦めていませんでした。1994年のリレハンメルオリンピックを見ていて、後輩にポロっと言ってしまった一言がきっかけで30歳でテレマークスキーを始めることになりました。アルペン、ジャンプ、クロカン――これまでの小学校から大学までの経験が全部つながる競技で、僕にとってすごく理にかなっていたんですよ。 練習環境にも救われて朝5時から動くスキー場、週末は深夜0時まで営業していたので、朝6時に滑って9時に出勤、夜10時にまたゲレンデへ――仕事とスキーを両立できるみなかみの自然が、僕の挑戦を押し上げてくれました。そして1年間6レースのポイント制で総合3位になって2002年にワールドカップと世界選手権に出場することができました。オリンピック種目になるかもしれないという話も当時はありましたが、種目化はされず、翌年の大会中に怪我をして終わってしまいました。でも、世界の人たちと同じ舞台に立って戦えたという事実が、やり続けるという信念の起点になりましたね。


―久保さんの物事を選択する基準はありますか。

    基本、誘われたらまずはやってみることにしています。いろんな人が誘ってくることは、だいたい自分の知らない世界だから、不安はあるし、多少は躊躇するんです。でも予定が空いていれば、まずは入れてみる。違ったら、やめればいい。軽く入って、ちゃんと見て、次を決める。 このリズムが僕には合っています。だから飛び込みの営業とかも基本断りません。勇気を出してドアを叩いた熱量を受け取りたいし、そこから新しい情報やヒントが生まれることも多いんですよね。旅館という仕事は、あらゆる体験を還元できる器なんです。だから僕自身がたくさん旅をしたり、トライアスロンをしたり、体験して学んで、宿に持ち帰る。これがいちばんのアップデートです。
旅館経営もまさしく「壮大な実験」だと思っています。本館の改修は毎年2室ずつしているんですけど、毎年完璧だと思っても、作ったら必ず次の課題が見えてくる。反省を次年度に反映して、バージョンアップする。トライ&エラーを愉しむ姿勢を、組織にも定着させたいですね。
僕自身、乗り越えられない壁は絶対に来ないという言葉を、信じてやってきました。クレームに追われた時期も含め、仕事をしてると失敗や壁は必ず現れるじゃないですか。でも逃げると形を変えて何度でもやってくるんです。そこで正面から向き合って乗り越えちゃうと、同じ壁は二度と来ない。そうするとまた違う壁が現れるんですけどね。後輩や支配人を育てるときも同じで、「その壁は君に必要だから来ている」と伝えています。スキーでも仕事でも、正面から向き合い続けていれば、ある日、世界のスタートに立てる。あの実感が、いまも僕の背中を押してくれています。

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当たり前の風景の尊さに気づいたとき、使命が生まれた


―谷川の自然環境が久保さんの人生や価値観にどのような影響を与えていますか。

やっぱり、生まれ育った場所だからこそ「次の世代に残していきたい」という気持ちはすごく強いですね。中学生の頃、東京に住んでいる親戚のお兄さんに「谷川岳は宝だよ」って言われたことがあるんです。当時はピンとこなくて、当たり前の風景にしか見えなかったんですけど、「大きくなればこの大切さがわかるよ」と言われて、そうなのか…と。その言葉はずっと残っています。

    仕事をしていると、いいときもあれば悪いときも必ずありますよね。そういうとき、自分の心の支えになってきたのは「ここで生まれ育った」というアイデンティティなんじゃないかと思うんです。

    今は少子化で、うちの子どもの学年も20人くらいしかいない。でも僕のときは100人くらいいました。それでも地元に残っている同級生は10人いるかいないかくらいなんです。多くは外に出てしまった。でも、戻ってくる場所って結局このみなかみなんですよね。だったら、この場所を守っていくのは誰なのか。やっぱりここで事業をしている自分たちが残していかないといけない。そういう気持ちで、今この仕事をやっています。

    そしてこの自然がなければ、旅館たにがわや仙寿庵は成り立たないです。そしてお客様も谷川連峰の谷川岳を中心とした自然に触れることで体がリフレッシュしますし、それを求めて来ている人も多い。だからお客様の過ごし方として、庭や外に出てもらうような施策を前からしています。その分、宿に入ってきたときの心地よさを感じて欲しいし、建物の“気の流れ”にもこだわりました。玄関の位置は風水で決め、神社仏閣の知恵を借りて、心地よい建物を長く保つために床下には炭を20トン埋めました。初めて玄関に入ったお客様が「なんだか落ち着くね」とおっしゃることがあります。理屈より先に体が納得することを大切にしていますね。


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コロナと母の病を経て――「健康に気づく宿」への転換


―コロナが旅館や久保さん自身に与えた影響はどのようなものでしたか。

    コロナは僕にとってはすごく考えさせられるいい機会でした。2019年、母が大腸がんに、父は心臓弁膜症になり、ほぼ同時期にコロナが世界を止めました。まだ社長になって2年目くらいで精神的にもきつかったですが、その前年に妻と結婚していたので、二人三脚でできたのは精神的な支えになりましたね。またコロナの前にナオさん(@Nao)と出会ったんですけど、色んな人が出歩かないからこそ、僕は逆にチャンスだと思って結構出歩きました。コロナが世界で流行り始めた3月にトルコのブルーモスクにいて、普段は3万人の来場が30人に減った光景をこの目で見て、帰国便が止まる直前で何とか戻れたんですが、怖いなと思ったのを覚えています。しかし、ルレ・エ・シャトーの仲間からは「パンデミックは3年続く」という情報も共有されていたので、腹をくくることができました。ナオさんからもサウナを教えてもらって連れて行ってもらったり、そこでサウナの魅力にハマり、仙寿庵にしかないサウナを作ろうと思ったので、自分にとってはいい機会でした。

    旅館は地域が活性化してそこから宿を選ぶのが普通だと思いますが、仙寿庵は目的地として選ばれる宿であり、全18室が個室食という構造も相まって、稼働はほとんど落ちませんでした。ただしスタッフが「自分が感染して家族に移したら…」と怯えていたので、その気持ちに寄り添い、配膳回数や動線を組み替えて不安を減らす工夫はしました。逆に旅館たにがわは直撃。銀行や公的制度に助けられ、なんとか乗り切りました。

    そして母の死。あれほど健康に気をつけていた人が――と、胸の奥で何度も言葉が詰まりました。だから決めたんです。健康経営を、経営のど真ん中に据えると。
    スタッフが心からの笑顔が出せないなら、いい接客なんてできないじゃないですか。そのためにスタッフも、スタッフの家族も健康でなければいけないと思い、朝のラジオ体操や福利厚生の見直し、休みの取り方の設計など小さくても「続ける施策」を増やしています。

    僕はトップというよりサブが性に合う人間だと思っています。それでも社長だから、進むべき方向は僕が示す。その上で、走り方は一緒に考える。健康経営は一朝一夕では浸透しませんが、言い続け、やり続ける。現場に「大丈夫?」と声をかけ続ける。そうやって、少しずつ組織の体質を変えていくのが、僕の役割だと思っています。

    そして宿のビジョンも一段と深まりました。非日常的な空間の提供と明日への活力の提供に加えて、「健康に気づくきっかけになる宿」であること。健康経営やウェルネスに特化したホテルを調べていくとタイのチバソムに辿り着きました。実際に行ってみると、そこでは一人ひとりの目的に合わせたプログラムが200以上あり、専門医が付いてスケジュールを組んでくれて、ここに来ると健康になれるという体験をしてきました。みなかみには、自然、食、文化、アウトドアなど素材は揃っているので、この体験を地域に還元し、地域のみんなと一緒にプログラムを作っていこうと思っています。そうすることで地域に滞在する期間が長くなり、滞在の質がぐっと上がることで、また来たいと思ってくれる。そして地域が観光として盛り上がってくると思っていますし、宿の中で完結しないウェルネスを、地域ぐるみでやっていきたいんです。


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原点に戻り、新しい扉を開く

―久保さん自身がこれから挑戦したいことはありますか。

    個人的には、トライアスロンのIRONMANは今年の6月のケアンズでは完全完走とは言えなかったので、完全完走にもう一度挑戦したいですし、飲食のプロとして来年にソムリエ資格にも再挑戦したいです。そして自分の原点はスキーなので冬はスキーのマスターズにチャレンジしようと思っています。

    Honda Lab.に入ってから、外に出る機会がぐっと増えました。ここは、本当に「みんなが挑戦している」コミュニティ。2〜3人じゃない、全員がです。その空気に、僕もたくさん後押しされていて、チャレンジし続けていることが楽しいし、みんながやっていることから刺激を受けているので、すごく良い循環だなと感じています。

    11月にはBusiness Lab.の仙寿庵の貸し切りイベントがありますが、初めての方にも来たことがある人にも、どうしたら喜んでもらえるのか、どう感動してもらおうかなと考えています。何を仕込むかは当日のお楽しみで(笑)。でも僕1人ではできません。みんなで作るイベントにしたいと思っています。

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    今回の「Honda Lab. Spotlight」では、スポーツから学んだ挑戦の姿勢と、旅館業を通じて培った信念をお聞きしました。「人に後押しされてきた」と語りながらも、自ら挑戦を選び取り、「乗り越えられない壁はない」と信じて進み続ける久保英弘さん。その姿勢は、きっと読者に勇気と気付きを届けてくれるでしょう。

@久保 英弘さん、心温まるお話をありがとうございました。

これからもHonda Lab. Spotlightでは、メンバーの挑戦とストーリーを丁寧に紡いでまいります。
お楽しみに!

interview by @しゅーへー@みぃ@SHOTA
Text by @しゅーへー (大箭周平)