第31弾は、EL Family Office株式会社 / 株式会社山陵汀 代表取締役の松山 将太(@SHOTA )さんにお話をお伺いしました。

辞めるつもりはなかった総合食品商社を退職するに至った父親を襲った病と決意、そして将太さんが考える故郷の魅力を活かした新規事業とは?

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(1)EL Family Office株式会社 代表取締役 / (2)株式会社 山陵汀 代表取締役 | (1)顧客にとっての「Third Family」として顧客の物心共に豊かな人生を歩むサポートをFinancial Planning事業を通じて実現する / (2)京都市京北地域の老舗和食割烹を引き継ぎ、地域の魅力を復興させるべく地場の卵に拘ったプリンの製造・卸売の新規事業を行う。


地元を捨て、そして戻った男。過去と未来を繋ぐ、挑戦と再生の物語


ーまず初めに、お仕事の内容から教えてください。

    今は総合FP事務所の経営と家業の引継ぎの2つです。

    総合FP(Financial Planning)事務所は2023年にEL Family Office株式会社を設立しました。顧客にとっての「第三の家族(Third Family)」という立ち位置を目指し、主に3つの事業をしています。1つ目はライフプランニング事業で、個人や法人の人生設計や相続・事業継承のサポートをしています。2つ目は法人・個人事業主の企業年金づくりとしてiDeCoの企業版である企業型確定拠出年金(DC)の導入や研修、金融教育などのサポートをしてます。3つ目は法人・個人事業主の経営をサポートする事業をしています。具体的には補助金や助成金の支援をしたり、WebやDXの支援をしたり、会計や事務処理のサポートをしています。

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    もう1つの家業は、京都市右京区京北という過疎地域で山陵汀という飲食店を経営しています。創業51年目の会社で私は3代目になります。以前は割烹メインでやっていたようです。観光地として人気だった事もあり、以前は観光客が多かったものの徐々に客離れが進み街も寂れてきました。父はバブルを経験した世代であり過去の栄光にしがみつき、世の中の変化に徐々に付いていけなくなり、最近ではかなり寂れた田舎の定食屋さんのようになってきていました。そこにコロナが追い討ちをかけ、危機的な状況になったタイミングで更に父親が大病をして倒れ、急遽2022年に引き継ぐことになりました。そこから飲食事業を立て直し、現在は新規事業としてプリンの製造・卸売に注力しています。

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―今までのお仕事の経歴について教えてください。

    大学を卒業して、元々は食品の総合商社で9年ほどマーケティング・営業支援・顧客のビックデータ分析を中心にしていました。そこから2013年に保険会社に転職して、2022年に家業を引き継ぎ、同時にFP事務所としても独立したという流れです。FP事務所については、40歳で元々独立開業を計画しておりましたが、当初想定していなかった家業の引き継ぎも同時にすることになりました。

    新卒で勤めた商社は辞めるつもりはなかったのですが、20代後半に父親がくも膜下出血で倒れ、そこから会社の経営状況を初めて知り、今にでも潰れてしまうという状況にあることを知りました。実は以前から父親からお金を貸してくれとよく催促がきていました。私に連絡が来る時はいつも危機的な状況であり単位も何百万だったのですが、緊急という事と当時あまり関わる余裕もなく、お金で解決できるのであればと思い、仕送りをしていました。徐々に回数が増え、おかしいなとは思いつつも、自分自身の事で余裕がなかった事、会社が潰れると関わる人全員に迷惑がかかると思い、父の為というよりは周りの人の為にずっと支援していました。しかしながら、このままでは自分自身含め関わる人全員、経済的に死んでしまうのではと思い、家族兄弟の中で当時働いていたのは自分だけだったのもあり、転職を決意しました。

    当時の僕の転職理由の第一優先は「稼ぐ」でした。営業経験がなく営業という仕事を否定していました。どちらかというと悪いイメージがあった為、避けていました。稼ぎたいが、営業職や人に指さされるような仕事、人に感謝されない仕事はしたくないとの意志が強かった為、医療関係の仕事を転職先として探していました。(当時は営業の仕事の本質を理解していなかったのでそんなイメージでした。)そんな中、保険会社からヘッドハンティングを受けて転職することになりました。保険会社のイメージも悪かったのですが、その会社は私が好きな企業ブランドの創業者の方が「世の中にないサービスを作る」を理念に作られた会社であり、未経験ながら挑戦したいと思い転職をしました。

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    転職後、営業未経験ということで全く誰にも期待もされず、周りは別の業界でトップセールスをしてきた人ばかりという厳しい環境ではありましたが、昔から反骨精神が強く、仕事はとても充実していました。元々自分は人より才能がないことを理解していたので努力をするのが好きでした。人と同じ事をしたくない天邪鬼気質(人ができるなら任せれば良い)や、小さい頃からいじめられっ子だったという事もあり、常に他人とは違う自分の存在意義を出す事をずっと考えていたのかもしれません。その努力のおかげか初年度に新人賞で全国3位に入賞したり、入社から連続で社内表彰されるなど結果だけ見ると充実していました。

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    しかし、元々能力がない状態から結果を残してしまうと「成果を落とせない・出し続けないといけない・もっともっと上を」というプレッシャーを自分自身にかけるようになってしまい、家族の為にと思って頑張ってきた仕事の目的が徐々に「成果」を求めるように変わってきていました。同時に、頑張れば頑張るだけ家族からのお金の要求も増えてくるようになり、次第に心と体に不調が起こるようになりました。

    こんな生活を続け、数年後に40歳を迎えた時に気持ちよく独立できるのだろうか、独立しても幸せなのだろうか、家の問題をどう解決していいのか。。。いつの間にか、誰かの為を思いすぎ、誰かの人生を生きようとしていたのかもしれません。当時は自分を見失い、自分の人生を後回しにしていた気がします。そんな時にHonda.lab.を始めるというナオさんの広告を見て、すぐに応募したというのが入会の経緯です。


―家業を継ぐに至った経緯を詳しく教えてください

    上述の通り、親との関係も良好ではなく、経営状態もボロボロの会社を引き継いだわけですが、その経緯を少し説明します。過去の「後悔」から「覚悟」を決めたというのが結論です。

    そもそもは、僕が15歳くらいの時に祖父が亡くなり争続(相続)がおこりました。田舎で親戚がとても多い家柄だったので、これまで仲良くしていた親戚とめちゃくちゃ揉めたんです。僕は小心者で真面目な少年だったんですが、これまで仲良かった人間がドロドロの争いを目の前で繰り広げ、人間の汚い部分を見て引いてしまったんです。特にうちの母親が全方位から責められ、当時の私には止める事も守ることもできず、特に揉め事を止めなかった父に対して嫌悪感を抱いていました。今でいうパワハラ気質の強い父に当時は力でも言葉でも抵抗ができませんでした。そこから親との関係はあまり良好ではなく、親元及び地元を離れたい願望が強くなりました。当時サッカーをしていた事もあり京都で一番強い高校に行かせてくれと親に頼み下宿させてもらいました。サッカーをしたい事はもちろんでしたが親から離れたかったというのが本心かもしれません。家には二度と戻らないと人生最初の「覚悟」を決めた瞬間でした。

    母との連絡は年数回あったものの、家には基本帰省しないまま、父親が最初に倒れるまでの約15年間続きました。僕の中では、親との関係において空白の15年です。父親が倒れたと連絡があった時はすぐに病院に駆けつけ、手術に向かう父(意識はすでにないが)にギリギリ会うことができました。くも膜下出血という病気の特性上、医師からはおそらく助からないのでお別れをしてくださいと言われました。その瞬間、今までの生き方を猛反省しました。親との問題は生きてる限りいつかは良くなるのでは・・・と時間が解決してくれると思い込んでいましたが、「時間は有限である事」を思い知らされました。自分は死ぬ間際の本人ではありませんでしたが、走馬灯のように過去の親との思い出が蘇り、産んでくれた事、育ててくれた事への感謝が溢れてきました。恩返しをしないといけないという思いが芽生え、人生を見つめ直すきっかけになりました。

    ただそのときには家業の経営状況が悪すぎて引き継ぐことは考えておらず、私が転職して外でお金を稼いで実家に渡すということを決め、上述の通り9年ほど親の会社の援助を続けていました。父は奇跡的に回復し、制限はあるものの仕事復帰もできるようになりました。

    そして月日は経ち、コロナ禍のある日突然、父親が2度目の脳出血で倒れ、今度は回復せず半身麻痺になり介護施設に入ることになったんです。もう回復の見込みはない事がはっきり分かり、コロナ禍で経営状態は更に悪化している会社をどうするか真剣に考えた結果、「承継」する決断をしました。

    僕の家は、地元にある天皇のお墓を守る武士の家柄だったようで、昔から歴史や家や墓を守りなさいと言われ続けてきました。今思うに、地域・家柄を守る「跡継ぎとしての使命」、かつて地元を捨てた後悔の念に加え、地元に残された母親を守るという「長男としての使命」が強くあったのだと思います。

    FP事務所として独立しようと思った背景にもこれらの経験があります。自分自身がした精神的・経済的な負の経験を自分の周りにはしてほしくないという事、自分の親がやったような経営やリスクヘッジのできていない経営は従業員やその家族に多大な経済的リスクを負わせてしまう事になります。そして何よりも、私がそうだったように誰に相談して良いかわからない、誰に相談するのが正しいのか、家族ではないが家族以上に顧客の事を考えて伴走できる「第三の家族(Third Famly)」として課題解決ができるサービスを提供する存在になりたいと思っています。


ーそんな渦中の2020年にHonda lab.に入り、変化したことはありますか。

    変化はいっぱいありましたが、大きかったのは独立と事業を引き継ぐ「覚悟」をするきっかけをもらいました。Lab.に入って、ナオさん(@Nao )が初めて大阪オフ会に来られて、初めて話すナオさんに緊張しながら現状や今の課題点、これからの計画などについて少し喋らせて頂いたときに、「覚悟が足りない」と言われたことがとても響いたんです。自分では真剣になってたと思っていましたが、当時はまだ保険会社の守られた環境にいる中で、新しい事をするに当たり、現状の枠組みにこだわり「出来ない理由」を考えていたのだと思います。真剣に考えていたものの自分の決めた枠組みの範囲で真剣に考えていました。ナオさんが思ってる真剣の枠組みはもっとはるか上にありました。それからも色んなLab.メンバーの挑戦やお話を聞いていると、突き抜けている人は普通は無理だと思うような世の中の常識とか枠組みを超えている印象がすごくあり、会う度に刺激をもらえています。しかも楽しんでいる。ナオさんの言葉がきっかけで意識が変わり、自分が勝手に限界だと思って引いていたボーダーラインが上に上がりましたね。


「コツコツこそ最強」トライアスロンを通じて考える、自分だけの成功法則

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(トライアスロンデビュー戦    @2022年ホノルルトライアスロン)

ートライアスロンにそこまで情熱を注げるのは何が根底にあるのでしょうか。
   
    もともと僕はスポーツを真剣にやることを諦めてた部分があるんです。それはサッカーに真剣に取り組み、いつかはプロにと思い競技していた中、22歳のときに膝の前十字靱帯断裂という大怪我をした経験があります。手術をして1年ぐらいリハビリをして競技復帰をしたのですが、また靭帯断裂・半月板損傷を繰り返し、結果的に10年で5回切れました。

    5回目の手術のときに先生から「ラストチャンスです。手術をするかしないか選んでください。一つ目の選択肢は、手術をしないという選択。スポーツ復帰はできないけど将来の生活に大きな支障があることはないでしょう。もう1つは手術をするという選択。数年という短期的にはスポーツ復帰できますが、老後はたぶん人工関節になる可能性があります。どちらかを選んでください」と二択を迫られ、大好きなサッカーをしたい事、後で後悔したくなかったので即答で手術をする選択を選びました。靱帯や半月板の再建・縫合や切除を繰り返していたので、もう膝はボロボロでした。正座はできないし、冬は膝が痛い。スポーツ復帰はできるけど、パフォーマンスが良くなく左右のバランス感覚もおかしくなってる感じでした。頭と体のイメージが繋がらなくなってしまったので、真剣にスポーツはできないだろうとずっと思っていました。

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    そんな思いを抱えながらも、Lab.に入り東京のメンバーがトライアスロンを始めて、ゼロからチャレンジをする姿を見ていて、めちゃくちゃ胸が熱くなったんです。それがきっかけで、ちょっとやってみようかなと思ったところが始まりでした。ここでも自分の決めた枠組み(限界)の中で考えていたことを反省しました。単純にメンバーの挑戦に刺激され胸が熱くなった事で容易に自分のボーダーラインを上げる事が出来ました。無いものにばかり向き合わず、今できる事、今からできる事、自分の可能性を信じる事ができました。膝がボロボロだから諦めるという自分の枠組みを壊せた事が自信にもなっています。
    また、トライアスロンも1人の孤独な競技だと思っていたんですけど、練習だけでなくてレースに関しても、1人だけの競技ではないというところに気付き、すごく惹かれたのもありますね。やっていて久々に楽しくて、ドはまりしちゃったのがトライアスロンですね。でも膝は痛いし、大丈夫かなってビビってますけどね笑。

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(ラボメンバー主催 スワコエイトピークスミドルトライアスロン打ち上げ    @2024年 諏訪)
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(アイアンマンデビュー戦    @2024年Ironman Japan south hokkaido)

ー将太さんが人生において大切にしている価値観はなにがありますでしょうか。

    それは3つあります。
    ガンジーの言葉が好きで、「My life is my message〜自分の生き方で人に影響を与えたい〜」というのが、僕の人生の1つのテーマです。今の仕事を通じて体現していきたいと思っています。

    2つ目は、僕の根底にあるものなんですが、就活1社目の会社の社長が教えてくれた「喜ぶべきは日々経々の利。恐るるべきは日々経々の損」という言葉です。もう20年以上も前のことですが、とても印象に残り、勝手に座右の銘にしています。意味は、喜ぶべきは短期的な大きな成果ではない、日々の小さな成長や成果、幸せに喜びなさい。逆に、短期的な大きな損失を恐れなくても良い。本当に恐れる事は日々じわじわ失っていく物(時間・人間関係・お金・その他)を恐れなさい、という意味です。簡単に言うと、大きな利益や大きな損失に左右されずに日々のコツコツを大切にしなさいという言葉です。

    僕は昔からずっとそのようなタイプだったんです。もともと才能が何もなかったんですが、努力がすごく好きで諦めない子だったんです。うさぎとカメでいうところのカメさんタイプだった。だから、どんなに目先で成果を上げた人がいたとしても、いつかは抜ける。人よりもめちゃくちゃ時間がかかるけど、いつか僕は成功できると思っていました。それがずっと僕の根底にあったので、この言葉を聞いたときにバチってはまったんです。まさにトライアスロンに没頭した理由もここだと思っていて、長く楽しく続けて、コツコツコツコツした人が最後に強くなるのを、92歳現役トライアスリートの稲田弘さんやいつもお世話になっているCEEPOの田中社長(70代)が証明してくれている。だから5年後や10年後にもしかしたら自分もこのままコツコツいけば競技者としていい感じになってるのかもというのが想像できるスポーツだから魅力的ですね。努力するウサギには追いつけないですが笑。
    目標は世界のたくやん(@たくやん )のように世界で戦える男になりたいと思います。

    3つ目は「毎日が命がけ」です。この言葉もどこかで教えてもらった言葉です。命がけという言葉は本気を出した時や、ここぞという時に使う言葉ですが、僕は過去の経験や仕事がら命や時間に関する事をよく考えます。自分の人生は無限ではないし、どこかで終わりが来る有限なものです。昔はまだ時間があるからいつかはこうしたいなという事ばかり考えていましたが、父の事も含めいつ何が起こるか分からない。そう考えると、いつかは終わる人生の終着点に向かって今、1分1秒命を削っているのです。文字通り命を削って生きているから命がけ。つまりはここぞというタイミングを待つのではなく、今の1分1秒命を削って生きているのだからもっと日々の時間を大切にし、後悔しないように過ごしたいと思っています。まだまだ修行中なので、時々サボってしまう事も勿論ありますが、後悔しないように日々を過ごそうと思います。


ーショータさんは長期的な目標の立て方について、どのように考えているのでしょうか。

    僕は目標を立ててからでないと動けないタイプなんです。逆に言うと、目的・目標がブレたりすると動けない。いきなり動けない人なんですが、それがメリットでもありデメリットでもあると思ってます。考えて、こうしようと決めてからでないと動かないから、目標を立ててコツコツすることはすごく好きなんですよね。でも以前は、1年後、3年後、5年後、10年後と目標を立てていたんですが、Lab.に入ってから世の中の変化を経験する中で考え方も徐々に変わり、こんなに世の中が激しく変化しているのに、長期の目標を立てても意味がないと思うようになりました。それくらいLab.にいる人の成長スピードが早い。だから今は1年後や3年後の目標は立てていますが、その都度修正をかけていけるような力を付けていきたいと思っています。

    そのためにも、最近はあえて「流される」という修行をしています。先ほど述べた通り、自分の意志が固まるまでは時間がかかるんですが、固まってしまったらあまりブレない人なんです。でもそうすると、自分の中の枠組み(ボーダーライン)がまた勝手に固まり動けなくなりそうなので、深く考える隙を与えず「流される」という修行をしてます。とりあえず、面白そうなところには飛び込んでいく、イベントがあれば参加する。その時間をどう自分で解釈し有意義にするか、その場その場で考える瞬発力・判断力、考えないで何を感じるかという感性を養おうと思っています。実際行けば楽しいし、新たな気付きもあり全て経験になるんですよね。修行を始める前は行くと決めるまでがすごく億劫だったんですけど、最近はもう何も考えていなくて、予定が空いてたら行くみたいな感じにしてます。決めて行って、残りの空いた時間で仕事のパフォーマンスを最大化することを考えるようにしてますね。

    実際に修行をするようになってから、決断力と変化に対応する力は以前よりは付いた気がします。それでもLab.の人の決断力・判断力は圧倒的に早くまだまだですが。何か誘われた場合でも、仕事でも、ちょっと考えて後で答えを出そうと思っていたことが減り、イエスかノーを言えるようになりましたし、飛び込んでみて、そこからどうしようかと考えることにも面白みを感じるようにもなりました。大体、「イエス」か「はい」しか最近は言っていないような気がします。来年のソムリエの挑戦もその結果でした。

    素人同然の僕が、経験豊富な猛者達と挑戦するプレッシャーを楽しもうと思います笑


「故郷を愛し、未来を創る」地域の魅力を発掘し、プリンと古民家で新たな価値を生む


ー今後取り組んでいきたいことや実現したいことはありますか。

    今からはFP事務所と家業の両方を拡大していきたいのもありますが、今回は家業の方の話をしますね。まだまだ課題がたくさんあるのですが、立地環境はとても良くて、いい素材をたくさん持ってる地域なので、そこを形にしていきたいですね。具体的には、地域の魅力的な食材を使った取り組み、地域の資源を活かした取り組みを強化していきたいと思っています。大きくは3つあります。

    1つ目は、地域の魅力的な食材を使ったプリン事業についてです。これまで卸売やOEM製造中心で行ってきましたが、自社のオリジナルブランドを立ち上げます。近くにある隣町美山町の重要伝統的建造物郡保護地区「かやぶきの里」の中にある平飼い養鶏場さんと一緒に盛り上げていこうと思っています。ミシュランの店やノーマ京都でも提供されていた卵を作られている養鶏場さんでその卵を使った取り組みを行ってます。1月にはプリンの新しいブランドをリリースする予定です。プリンは僕自身が好きである事と、プリンの材料は卵と牛乳がメインです。卵も牛乳もニワトリさんと牛さんが産み出す命の源であり、プリンは命のお菓子だと言われています。私が家業を引き継ぎ、過去の親とのしがらみを払拭し、今は家族でプリンを作ってます。親と子(僕)が協力して作るものにプリンがとても運命的にマッチし、こうなった事にも意味があるのではないかと思っています。

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(現在色々と準備中です)

    2つ目は養鶏場さんと地域の食の循環モデルを作り上げる事です。お取引させていただいている養鶏場さんはニワトリさんの為に、より自然で安全な飼料でストレスフリーに育ってほしいという思いから、国産飼料にこだわった取り組みをされております。昨年から当社所有の耕作地を使って国産のとうもろこしを作り、そのとうもろこしを食べたニワトリさんが産んだ卵を当店で利用させていただいています。距離が近いという事もあり、朝にとれた卵を使った「朝どれ卵の卵かけご飯」を提供したり、卵を産んでくれて高齢化した親鶏の肉を使ってメニュー提供をしていきたいと思っています。まだレシピ等は実験中で国産飼料卵も数量限定での取り組みですが徐々に拡大をしていきたいと思っています。

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(試作検討中の親子丼)
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(3代目生地問屋@ハマーさんと3代目同士のコラボ笑    色々実験中。店頭暖簾作ってもらいまいました)

    3つ目は宿泊事業を考えています。数年前から考えてはいたのですが、実家の古民家が空き家になっているので、そこを宿泊として貸し出しするということに着手していきたいです。Lab.には不動産に強い方や民泊の取り組みをされていたり、建築業界の方も各地域に多数いらっしゃり参考にさせていただいています。天皇の墓が祀られているお寺のすぐそばに位置しており、店からも程よい距離にある為、ご飯は店で食べてもらい、地域を観光しながら宿泊は古民家でという流れを作っていけたらと思っています。

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    本当に何もない地域でどのようなポイントを目玉としてプラスしようかなとずっと考えていたのですが、これもBusiness Lab.の隠岐の島の合宿レポートを見た時に、「ないものはない」というコンセプトがとてもハマったんですよね。ド田舎で何もないので、無理に作る必要はないなと思っていて、プラスの思考ではなくマイナスの思考でありのままの姿でいこうと思ってます

    あるものは綺麗な水と自然、本来はこれだけで十分だったんですね。これからもLab.の皆さんと接することで自分の思考や感覚をもっと研ぎ澄まし、無駄なものを削ぎ落としシンプルなものを作り上げていければと思っております。

    まだ、全部実験中です。「人生は壮大な実験だ」を少しでも体現できればと思っています。


―最後にHonda Lab.の人たちにメッセージをお願いします。

    いつも刺激をありがとうございます!こんなに学びとチャレンジができる環境は体験したことがありませんでした。そして何のしがらみもない「ゆるいつながり」がとても心地良いです。もちろん発信や挑戦をしなければ何も生まれませんが、挑戦することを決意し発信すればこんなにも心強い味方がいるのだと思えると思います。

    また、関西メンバーも本当に温かい人ばかりですので、初めましての方も関西に来られる際は是非連絡してください!高確率で皆集まってくれます!(ただ飲みたい人ばかりかもしれませんが笑)

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    今回の「Honda Lab. SPOT LIGHT」では、松山将太さんの地元を捨てた辛い過去から現在の2社経営に至るまでのストーリー、人生の根底を流れる価値観、そして戻った故郷で考える新規事業まで、様々なお話を伺うことができました。@SHOTA さん、貴重なお話をありがとうございました!


今後もHonda Lab.メンバーへのインタビューを実施していきます。お楽しみに!

Interview by @しゅーへー @みぃ 
Text by @しゅーへー  (大箭周平)